『選鍼三要集』杉山和一著⑤ ~江戸時代の鍼灸の教科書~

謬鍼を論ずる第四

愚、按ずるに世に鍼を業とするもの往往にして経絡を知らず。或は鍼を用ゆるときは薬を忌み。或は天地の理に従がうて人身に約することを知らず。或は鍼刺皮理に浅く帰一と為し。或は経絡を知らず而して百患腹に在り、諸経を忌み之を世々にす。癡者此の理を貴とぶ。鍼の道甚だ安悟を知て妄りに世に行ふ者多し。予、常に其の弊を患(うれ)う。如何となれば夫れ医の本は内経に出づ。鍼経九巻則ち霊枢なり。鍼の道に未だ聞かず鍼を用ひ薬を用ひざることを。未だ聞かず経絡を知らずして天地の理を行ふことを。未だ聞かず浅鍼を用ひて深鍼を用ひざることを。未だ聞かず腹のみに鍼して四肢に鍼せざることを。未だ聞かず。按ずるに鍼を用ひて薬を用ひざるは外人に其の誉れを沾んが為めか。嗚呼医の道は生道なり。何ぞ愚の甚しきや。如何となれば、経に曰く五法倶に立ち各々先ずる所有りとは斯れ之を謂ふか。天道を知るときは是れ明道、人身に約することを知らずして何を以てか病を医せんや。
経に曰く人は地に生じ命を天に懸く。天地気を合して之を命じて人と曰ふ。天に陰陽有り人に十二節有り。十二節は何ぞ、十二経なり。故に経絡を知らざるときは人身に約すること能はず。百患経絡に受く。之を知らずして何を以て病を治せんや。浅鍼の術、虚老の人に於ては最も可なり。師は医を業とす。虚人に鍼を用ひざるは経を以て前に論ず。薬を用ひて之を補ふ。又、壮病の浅鍼は実とに変気の術なり。主とする所に非ず。
変気論を按ずるに、内五臓骨髄に至り、外空竅肌膚を膓る。所(こ)の以へに小病は甚しく大病は必ず死す。故に由を祝して己(いや)すこと能はずなり。何を以て病を変移せんや。然れども予用ひざるにも非ず。臨機応変、医は意なりと。何ぞ鍼刺を一に決せんや。腹のみに刺して四肢に刺さざるの説、井蛙蟻道の謂ひ説くに足らず。内経を観るに腹に用るの説無し。古人の鍼は井栄兪経合を以て主と為す。師の所謂至妙は四肢に在りや。病ひ五臓に過ぎず、五臓の経は四肢に満つ。一身の父母は心と肺となり。心肺も亦た膈上に在り。死生は当に二臓を以て主と為すべし。鍼の道腹に止まるときは灸も亦腹に止まるや。嗚呼思はざることの甚しきや。予も亦た腹を主り常に行ふ。或問ふ病は樹木の如にして枝葉、四肢に在り、本は腹に在り、本を切り、標益々盛んなる者は未だ聞かず。予が曰く師常に此を謂ふこと甚だ詳かなり。専ら腹を主り其の本を切り、又四肢を主どる其の標を切る。千変萬患何ぞ愈へざらんや。其れ樹木を以て譬(たとへ)とすること甚だ明かなり。大木の如きは則ち其の本を切れども標一時朽木及ばんや。根なきは則ち日を追ふて絶へ、朽ちざるの間必ず元気の害と為らんか。師の道は然らずや。其の本を切り其の標を切る。大病俄然として愈え。実とに補法なしと雖も病を治すること亟(すみや)かなるときは元気自ら栄んなり。予が曰く、愚医其の標本を知らず、四肢を本とし腹を標とするも有り、腹を本とし四肢を標とするも有り。何ぞ一理に窮まらんや。予も亦た腹を分つて同志に告ぐ。

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