東洋医学偉人伝

杉山 和一(すぎやま わいち)

杉山検校胸像 生没:1610年(慶長十五年)~1694年(元禄七年)

杉山和一は杉山検校(けんぎょう)と呼ばれ、江戸時代の鍼師でした。日本独自の鍼の刺し方『管鍼法』の創始者として知られています。 『管鍼法』の御陰で日本では髪の毛ほどの細い鍼を用いた鍼治療を行うことが出来るようになりました。

杉山和一は伊勢の国で武家の跡取りとして生まれましたが、幼いときに伝染病(天然痘と言われています)で失明してしまいます。
17歳の頃、和一は鍼師を志して江戸に出ます。和一は江戸で山瀬琢一の弟子となり、鍼の勉強を始めました。しかしながら、物覚えが悪く、手先も不器用とのことで、22歳の時に破門されてしまいます。

その後、和一は京へ上り入江豊明(山瀬琢一の師・入江良明の息子)に入門し、入江豊明の元で鍼の技能を上達させたのでした。

江戸から京へ行く途中の江ノ島には次のような伝説が残っています。
『江ノ島弁財天の御利益を耳にした和一は「鍼の道を与えよ。然らずんば死を与えよ。」と岩屋に籠もり断食の行をしました。21日間の行が終わり、帰路についた和一は石に躓いて転び意識を失ってしまいます。すると夢の中に弁財天が現れました。弁財天を拝もうとしたところ、足をチクチクさすものがあり意識を取り戻しました。足を刺しているものを手に取ってみると、落ち葉にくるまれた松葉※でした。これをヒントに和一は管鍼法を考案しました。その後、和一の鍼の腕はメキメキと上達し、出世していきました。この出来事以来、この石の近くで物を拾うと幸運が訪れると言われています。(現在では「福石」と言われ江ノ島弁財天の名所の一つとなっています。)』
※竹筒の中に松葉が入ったものとの説もあります。

福石と道標
「福石」と和一寄進の道標

鍼の技術を極めた和一は江戸に戻り開業しました。管鍼法を用いた和一の鍼治療は江戸でたちまち評判になり、大繁盛したと言われています。

それから月日が流れ、和一が61歳の時には検校になりました。
杉山検校は鍼治講習所を作り、教育にも力を注ぎました。これにより多くの門弟達が育っていきました。鍼治講習所は弟子達により日本各地に作られ、日本中に杉山流鍼術が広まっていったのでした。(鍼治講習所が作られたのが1682年であり、世界的に見ても非常に早い時期に視覚障碍者の為の学習施設を作っていたことがわかります。)
鍼治講習所では初学者に『杉山流三部書』といわれる『療治の大概集』『選鍼三要集』『医学節要集』という本を用いて教育が行われていました。内容に興味のある方はこちらへ

杉山検校75歳の時には杉山検校の鍼治療の噂を聞いた将軍綱吉が自分の治療にあたらせました。杉山検校の治療により綱吉の病は無事に治癒したのでした。それ以降、杉山検校は奥医師として綱吉の治療を行うようになりました。

杉山検校が82歳の時には関東総検校に任命され、当道座の改革にも力を注いだと伝えられます。(当道座とは当時の視覚障碍者の団体。座頭・別当・勾当・検校などの位があり、総検校はそれらを取り仕切る最高位。)

杉山検校は弁財天を崇拝し、毎月江ノ島弁財天を参拝していたと言われます。江ノ島への48本の道標を建てたり、江ノ島弁財天に三重の塔を建てたりしたと伝えられています。道標はまだ何個か残っています。 福石のそばにも1つ移設されており、現在も見ることが出来ます。
高齢になっても参拝を続けている杉山検校を心配した将軍は本所一つ目に土地を与えその一画に弁財天を祀りました。現在でも江島杉山神社として両国に残っています。

江島杉山神社
江島杉山神社

杉山検校は高齢まで活躍を続け、天寿を全うしてこの世を去りました(享年85歳。命日は元禄7年5月18日)。現在、杉山検校は江ノ島の地で静かに眠っています。

杉山検校の墓
杉山検校の墓

「管鍼法による痛みの少ない鍼治療の開発」や「鍼治講習所を作り多くの門人達を育て、広く鍼灸術を広めた」といった杉山検校の功績は今でも色あせることはありません。


丹波 康頼(たんば の やすより)

医心方 生没:912年(延喜十二年)~995年(長徳元年)

丹波康頼は平安時代の鍼博士で、現存する日本最古の医学書『医心方』を著したことで知られています。
丹波康頼は随や唐から伝わった多くの医学書を元に編纂し、984年(永観二年)に『医心方』を朝廷に献上しました。これにより丹波家は宮廷医として代々続くことになりました。
『医心方』は全30巻の長大な物で、内容は多岐にわたり、鍼灸・内科・外科・皮膚科・耳鼻科・婦人科・産科・小児科・養生法・房中術・食養生などに関して記載されています。
このように様々な治療について書かれているため、平安時代の医術の全体像を知ることが出来る非常に重要な文献だと言えます。また、既に失われてしまった中国の古い文献の内容を伺う手がかりとしても重要な資料となっています。
丹波康頼個人の記録はあまり残っていませんが、『医心方』は現在まで散逸せずに残っています。
朝廷にて保管されていた『医心方』ですが、正親町天皇により1554年(天文二十三年)に半井光成に下賜されました。その後、半井家にて秘蔵されました。(半井家本・その後、1984年に国宝となり、現在に至ります)
また、仁和寺にも写本が有りましたが、現在は30巻のうち5巻が残るだけとなっています。(仁和寺本・こちらも国宝になっています)
幕末の1854年(安政元年)に幕府が半井家から半井家本を借り受け、丹波家の末裔、多紀元堅らによって出版されました。これにより『医心方』を多くの人が読むことが出来るようになりました。(安政本)

医心方三十巻
医心方全三十巻(安政本の復刻版)

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